クライオニクスとは?(Wikipedia英語版の翻訳) |
クライオニクス(人体の低温保存、しばしばクライオジェニクスと混同される)とは、現代の医学では生命の維持が不可能なヒトや動物を、蘇生が可能となる未来まで冷凍保存する行為あるいはその技術である。現在、クライオニクスの最大の実践者は、非営利組織であるアルコー生命延長財団と、クライオニクス研究所の2つである。
冷凍の過程は今のところ不可逆的である。クライオニクスを合法的にヒトに施術できるのは、患者が臨床死を迎え、さらなる治療を施すのは妥当ではないと法的な判断が下された(脳死と判断された)後のみである。クライオニクスでは臨床死後十分早く施術すれば、未来において蘇生される可能性があるという前提でものを考えている。また冷凍保存されたヒトは、将来の医学的基準において、必ずしも死亡しているとは言えない可能性がある事も、その論理的根拠となっている。(information
theoretic death (情報理論的死)を参照)
今日多くの科学者や医師は、クライオニクスに対して懐疑的である。しかし、クライオニクス支持者の中に多くの科学者がいるのも事実である。科学者達は、分子ナノテクノロジーやナノ医療といった未来技術の予測に基づいてクライオニクスを支持している。科学者の中には、数十年あるいは数世紀先の未来において、傷ついた組織や臓器を分子レベルで修復したり再生したりする、未来医療の出現を確信している者もいる。また病気や加齢の過程も可逆的なものであると考えられている。
クライオニクスにおける大前提は、記憶やパーソナリティやアイデンティティといったものが、脳の構造(神経回路網)や化学組成の内に収められているというものである。こうした考え方は医学では幅広く受け入れられており、また脳の活動が停止しても、ある条件下では再び活動する事が知られている。しかしながら現今の技術によって脳を保存しても、後の復活を十分に保証出来るとは一般的に考えられていない。クライオニクスでは、冷却前に高濃度の凍結防止剤を脳に行き渡らせれば、凍結による損傷を大幅に防ぎ、記憶やアイデンティティの元であると考えられている脳の細胞構造を健全に保つことができる、という研究結果を支持している。
しかし、現在の保存技術には限界があるため、クライオニクス実用化の正当性を不透明だと批判する声もある現状では、細胞や組織、血管、小さな動物の臓器の一部などは可逆的に冷凍保存出来る(つまり元に戻せる)。カエルの中には、マイナス2〜3度の部分凍結状態で2〜3ヶ月生存できる種類もある。しかしこれはクライオニクスで言う真の極低温保存とは言わない。クライオニクスでは、現状での目的を達成するのに、蘇生が可能なレベルまでの保存は必要ないと考えている。その目的とは、記憶や個人的アイデンティティをコードしている基本的な脳情報の保存である。未来における修復が可能となるまでこうした情報を保存する事は、情報理論的死を免れるのには十分であると言われている。
冷凍保存された患者の中で一番有名なのは恐らく野球選手のテッド・ウィリアムズであろう。ウォルト・ディズニーが冷凍保存されたというちまたの伝説は嘘である。彼は火葬されフォレストローン記念公園墓地に埋葬されている。クライオニクスのコンセプトを勢力的に執筆したSF作家のロバート・ハインラインは火葬され、その遺灰は太平洋にまかれた。長年クライオニクスの支持者であった、作家で心理学者のティモシー・リアリーは、大手クライオニクスプロバイダとの契約も交わしたが、死の直前に意思を変え冷凍保存はされなかった。
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実用化への壁
1. 氷形成と虚血による損傷
もともとクライオニクスは、その一部であるはずのクライオバイオロジー(低温生物学)の主流からは外れていた。凍結の過程では氷の結晶が形成される。一部の科学者達の見解によると、こうした結晶は細胞や細胞構造に損傷を与え、未来における修復を不可能にする。これがクライオニクスを亜流たらしめている一般的な理由である。しかしながらクライオニキスト達は長い間、こうした損傷の及ぼす範囲が、批判家達によって誇張されていると反論してきた。彼らの主張では、結晶の形成を妨げる冷凍保存用の化学物質(従来より用いられているのはグリセロール)を体内に行き渡らせるための、実用的な試みがなされてきたという。
クライオニキスト達によると、氷結晶による損傷の議論はミレニアムの転換点を迎え、完全に論駁出来るものになったと言う。これは21世紀メディスンの二人の低温生物学者、グレッグ・フェイとブライアン・ウォウクによって、冷凍保存技術に飛躍的な発展がもたらされた事による。新たに開発された凍結防止剤とその混合剤により、ガラス化の実現可能性が大幅に向上し、脳内での結晶形成がほぼ完全になくなったのである。ガラス化は組織を凍った状態ではなく、文字通りガラスのような状態で保存することである。ガラスの中での分子は低温状態においても、自らの向きを整列させて粒子状の結晶を形成する事はない。(水分子の場合、低温になると分子が整然と並ぶので分子間の距離が広がり、結果として水よりも氷の方が体積が大きくなってしまう) ガラス化に用いられる保存剤の分子は、ガラス転移温度を下回ると、液体のようなランダムな配列を維持したまま固定化し、「液状固体」を形成する。アルコー生命延長財団(Alcor
Life Extension Foundation)では、ヒトの脳全体のガラス化(ニューロ・ビトリフィケーション)を目標とし、より高速の冷凍法と合わせてこうした凍結防止剤の実用性について研究を重ねてきた。クライオニクス研究所(CI)では、低温生物学者ユーリ・ピチューゲン博士らが、ガラス化のソリューションを自社開発し提供している。
ガラス化に用いられる現在のソリューションでは、脳を常温に戻す時でも安定して結晶化を防ぐ事が出来る。これにより脳をガラス化し、温めて元に戻し、光学顕微鏡と電子顕微鏡を用いて氷結晶による損傷がないか、検査する事が最近では可能になった。その結果、氷結晶による損傷は見られなかった[4][5][6]。しかし、もし脳内に保護剤を完全に循環させることができなかったら、脳全域に保護物質が行き渡らなくなり、冷却時と加温時に凍結が起こるかも知れない。クライオニキスト達はこれに対して以下のように反論する。まず冷却時に起こる損傷に関しては、今後、ガラス化された脳を解凍する前に修復できるようになるかもしれない。また復温時の損傷については、固体状態時に加える凍結防止剤の量をさらに増やすか、復温方法を改善することで回避できるかもしれない。しかし現今のテクノロジーが許す限りで、最も優れたガラス化の手法を用いたとしても、復温がすぐさま蘇生を保証する訳ではない。というのも、結晶化を免れたとしても、凍結防止剤には毒性があるからである。これに対してもクライオニキスト達は、未来のテクノロジーがこの問題を克服し、復温後に発声する毒性と戦うための道を切り開くだろうと反論する。例えば、その毒性が蛋白質の変性によるものであるのなら、その蛋白質を修復したり(注:リフォールディング;細胞の中にはこれを行うシャペロンなどの機構が存在する)、置換すればよいという論理だ。
批判家の中には、「クライオニクスの患者は法的に死を宣告されているので、その臓器も死んでいる、よって凍結防止剤を大部分の細胞に行き渡らせるのは不可能ではないか」と指摘する者もいる。クライオニキスト達はこれに対し、「法的な死の宣告後すぐに極低温保存のプロセスを始めれば、個々の臓器(もしくは患者全体として)は生物学的には生きているので、(特に脳の)ガラス化の実効性は高いという事が実験的に示されている」と反論する。心臓など臓器は、ドナーの死亡後に移植される。それと全く同じ論理なのである。
クライオニクスの処置は、法的な死亡の宣告が為されるまでは始められない。その宣告は通常は心拍の停止を基準に為される(脳活動の測定を基準にするものはごく稀である)。心臓が停止し、血流が止まると虚血による損傷が始まる。酸素と栄養を奪われ、細胞、組織、臓器の劣化が始まる。数分も過ぎて再び心臓を動かせば、再流入した酸素は、酸化ストレスによって更に深刻な損傷を招く。この現象を再かん流傷害と言う。クライオニキスト達は、死の宣告が為された後に、できるだけ迅速に(心肺蘇生法のような)心肺補助と冷却を始めることにより、虚血と再かん流傷害を最小限に抑えようと努力している。ヘパリンのような抗凝血剤や抗酸化剤が用いられていると思われる。フロリダに拠点を置くサスペンデット・アニメーション
lnc.は、クライオニクス救助における虚血傷害を最小限に食い止めるため、最適な処理手順の研究とその実施に専門的に取り組んでいる。
2. 蘇生
ヒトを極低温保存し元に戻す事は、ごく近い将来のいかなる技術によっても不可能であるという見解は、科学者達とクライオニクス支持者達とは一致する。蘇生がいつの日か現実のものとなると信じている人達は、一般的に生命工学や分子ナノテクノロジーやナノ医療のようなキーテクノロジーの発展が鍵を握っているという期待を寄せている。蘇生においては、酸素の欠乏、凍結防止剤が持つ毒性、温度ストレス(による破砕)、ガラス化がなされなかった組織の氷結などによる損傷を修復する必要がある。多くの場合、広範囲に及ぶ組織の再生が必要となるだろう。これはあくまで仮定のシナリオであるが、蘇生のプロセスにおいて最も重要な役割を果たすと一般的に考えられているのは、無数の微生物や極小のデバイスである[8][9][10][11]。これらのデバイスは、理想的には加温を施す前に、健康な細胞構造や化学組成を分子レベルで再構成すると考えられている。更に突飛な考え方としては、マインド・トランスファーが蘇生のためのアプローチの可能性として提案されている。マインド・トランスファーとは保存された脳において、その記憶の中身を読み取る技術の事である。(注:例えばシナプスにおける神経伝達物質やその受容体の発現量を計測する事が出来れば、ニューロン同士の結合強度が分かる。この結合強度を全てのニューロン間について求めれば、脳を形成している神経細胞ネットワークの構造が明らかになる。脳におけるネットワーク構造とその機能とには有意な関係性が見られるので、こうした情報、即ち伝達物質や受容体の発現量を読み取り、計算機上に脳を再構築する可能性も視野に入れられているのである。)
クライオニクスにおける蘇生はよくLIFO(last-in-first-out、即ち最後に保存されたものが最初に蘇生する事)だと言われる。これによると、保存技術は最終的な目標である実用に耐え得る蘇生が可能となるまで進歩し続ける。その後の医療の発達によって、より原始的な方法で保存された人々に蘇生の順番が回ってくるのである。現在行われている脳のガラス化と深冷凍(凍結防止剤が氷結晶を抑えるので凍結(freezing)とは言わない)の組み合わせによって保存された人々の蘇生は、例え可能だとしても数世紀を要するかもしれない。
もし、総合的な分子解析および修復の手法が開発されれば、理論的にはどんな損傷を受けた肉体も蘇生させる事が可能だと言われている。そうであるならば、元々その人が持っていたアイデンティティをすべて(あるいは一部を)再構築するために必要な情報が脳に保存されているか否かが、患者の蘇生を左右することになる。つまり、生死の最終的な分かれ目は忘却にあるということになるのだ。
3. 社会的障壁
例えクライオニクスの実現可能性が科学的に立証されても、社会的な障壁によって成功への道が絶たれる可能性もある。最も明白な壁は、クライオニクスは初めから実現不可能で、クライオニクスの被術者達はすでに死んでいると広く信じられている事である。確かにクライオニクスの施術には、法律によって定められた現代医学的な死を伴う必要があるが、このような死の規定はどこか不毛さを孕んでいる。法律と習慣とによって、死体は人権や保護を必要とする人ではなく「物」と見なされる。こうした人間性の剥奪は文化的な壁であり、生きている人であれば例え先行きがどんなに長くなかったとしてもまず直面する事のない壁である。こうした理由で、クライオニクス支持派の人々はクライオニスクス被術者達を「患者」と呼ぶ。また現在の法律では彼等は死という状態にあるが、そのように扱う事は道徳的にあってはならない事だと主張している。
これに関連して、未来の社会が果たして「死人」の世話をし、蘇生させてくれるのだろうかという疑問がある。クライオニキスト達は、すでに社会の中にはクライオニクス患者の世話をしている人々のグループが存在し、そのような状態が数十年続いていることを指摘する。もし蘇生が可能になれば、このグループ(蘇生が可能となる日まで患者のメンテナンスをしてくれる支持者達)が蘇生を実現しようとしてくれるかもしれない。彼等はまた、極低温保存という状態を元に戻せるほど高度な技術力を持った社会においては、生と死の概念が今の社会とは違ったものになっているはずだと信じている。クライオニキスト達は“死人を蘇らせる”という発想を否定し、その代わり、クライオニクスを未だ実験段階にある高度な医療処置として捉えている。また未来社会がクライオニクス患者を知的あるいは歴史的に価値のあるものと考え、患者の蘇生に関心を持ってくれるかもしれないという意見もある。
そうでなかったとしても、「そもそも病人の治療と回復は倫理上の最優先事項であり、その時代の社会的価値観とは切り離して考えられるべき」と彼等は主張する。
神経保存
神経保存とは通常脳の冷凍保存を指し、外科的に頭部から頭部以外の体を切除し処分する事である。神経保存は“ニューロ”と呼ばれる事もあり、もう一つの“全身”保存と併せて、クライオニクスには二種類の保存方法がある。
そもそも神経保存が行われるようになったのは、記憶や個人的アイデンティティが主に脳に貯蔵されるという事実による。(例えば、脊髄損傷や臓器移植や手または足の切断手術を受けた患者は、個人的アイデンティティを保持しているように見える。) また極低温保存された全身のあらゆる部分を蘇生させるのは非常に困難かつ複雑である事から、未来のテクノロジーには必然的に全身の組織を再生する能力が求められる。つまり、それを用いれば、修復された脳から新しい体を生み出す事が出来るので、神経保存で十分であるという考え方も存在する。クライオニキストの中には、保存の過程で組織が大きな損傷を負うために、「全身保存であったとしても元の体は捨て、全く新しい体と入れ替える」、というシナリオを描く者もいる。こうしたシナリオに加え、低コスト、緊急時の搬送の容易さ、脳保存のクオリティに特化している点で、クライオニキストの中には神経保存を選択する者が多い。
神経保存の長所と短所に関しては、クライオニクス支持者の間でよく議論の的になる。アンチ神経保存派は、「身体が多くの人生経験の多く(後天的に習得した運動技能など)が記録されている」と主張する。「蘇生した神経保存の患者は果たして蘇生前の患者と同一人物か」という問いに疑問を投げかけるクライオニキストはほとんどいない。しかし、「患者は再生した身体に違和感を感じないのか」という問いに関しては、非常に多くのクライオニキスト達が「違和感を感じるだろう」と考えている
[12]。こうした理由によって、イメージアップにもなるということから、クライオニスクス研究所では全身保存のみを扱っている。神経保存の擁護派の中には、こうした懸念が「もっともだ」と考える者達もいる。しかし、低コストと脳保存のクオリティの高さを考えると、やはり神経保存が妥当であると考えている。アルコーに保存されている患者のおよそ4分の3が“ニューロ”である。
身体の再生方法として、メディアはしばしばクローニングを取り上げているが、クライオニクスの専門家達はこうした考えを退ける。何らかの蘇生が可能となる遥か以前に、クローニングはもはや時代遅れの原始的な技術になっていると彼等は考えているようだ。神経外科医のロバート・J・ホワイトは霊長類の体の移植が可能である事を証明したが、未来において神経保存患者や他の外傷を受けた患者を治療する方法としては組織再生の方が有望視されており、身体移植という考え方は退けられている。
お金の問題
クライオニクスにかかる費用は、KrioRusでの神経保存9,000ドル(1ドル115円換算で103.5万円)からクライオニクス研究所での全身保存28,000ドル(同320万円)、アルコーでの神経保存80,000ドル(同930万円)、アルコーもしくはアメリカ・クライオニクス協会による全身保存の150,000ドル(同1,730万円)まで実に様々である。この違いには、見積もりの違いが多少反映されている。クライオニクス研究所の料金には、スタンバイ人員(臨終患者のベッド脇で処置を始めるチーム)や輸送費、ミシガン州外での葬儀費用などが含まれておらず、これらは別料金として組まれている。スタンバイと輸送をクライオニクス専門家の手に委ねたいCI(クライオニクス研究所)会員は、フロリダに本拠地を置くサスペンデット・アニメーションInc.と追加料金で契約を結ぶ事が出来る。
クライオニクスは「金のなる木」として懐疑的な目で見られる事があるが、高額な費用の内訳はきちんと文書化されている[14]。クライオニクスにかかる費用は大きな移植手術の費用に匹敵する。費用の中で最大の項目は、(特に全身保存の場合に)患者の全身の永代維持費用を利息によってまかなうための資金である。
クライオニクスの費用をまかなう為に用いられる最も一般的な方法は、費用を長期間に渡って分散することができる生命保険である。クライオニクス支持派は、「こういった保険は年齢が若いほど安くあがる」と指摘し、「本当にクライオニクスの処置を望み、早めに計画を立てさえすれば、クライオニクスは先進国に住むほとんどに人に手が届く値段だ」と主張している。
哲学的・倫理的考察
クライオニクスでは、基本的に死を「臨床死を迎えた直後(あるいはしばらく経った後に)止めることのできるプロセス」と捉えている。もし死が心臓の停止と共に訪れないのであれば、「死とは一体何か?」という哲学的な疑問が沸き起こってくる。2005年、医学専門誌「Critical
Care」に、次のような倫理的議論が提示された。「現代医学によって死亡宣告を受けた患者の中で、厳密な科学的基準を満たした死亡患者はほとんど存在しない。」[15]
クライオニクス擁護者のトーマス・ドナルドソンは、心停止や蘇生の失敗を基準とした現代の死生観は、瀕死の病人に対する治療を断念することであり、それを正当化するために設けられた単なる社会構造でしかないと反論する。
[16]。このような観点では、死亡宣告とは病人を放置することによって施す安楽死の一種と見られている。哲学者マックス・モアは、「状況と意図を伴う死」と「不可逆的な絶対死」を状明確に区別した。[17]。不可逆的な絶対死は情報理論的死と言われることもあり、元通りの状態に修復不可能な程度まで脳が破壊されている状態を指す。生命倫理学者のジェームス・ヒューズは「蘇生の見通しが明るくなるにつれて、クライオニクス患者の人権回復は当然起こり得るだろう」と書いている。また彼は、「法的に死亡した人の復権は、例えば行方不明者の発見などで前例がある」とも書き添えている[18]。
クライオニクスを巡る倫理的・神学的議論のほとんどは、「クライオニクスとは果たして埋葬行為か、医療行為か」という問いを軸に展開している。もしクライオニクスが埋葬行為ならば、輪廻転生を信じる宗教自体が問われることとなる。このような宗教の信者にとって、一旦魂が抜けてしまえば蘇生は絶対に不可能であり、ほとんどの宗教では、神のみが死者を蘇らせることができると信じられているからである。クライオニクスのような高価な埋葬行為は、彼らの目には資源の無駄遣いとしか映らないであろう。もしクライオニクスが医療行為と考えるのであれば、法的な死はクライオニクスの施術を許可する為のただの仕組みで、クライオニクスは先の見通しがたたない長期の昏睡状態となる。普通なら諦める状態の患者に治療を施し続け、人間の生命を維持するために資源を使う正当な手段がクライオニクスということになる。クライオニクス支持者達は、「神学者達がクライオニクスを埋葬行為とみなして退けたせいで、堂々巡りの議論が続いている。クライオニクスを”埋葬行為“と呼ぶことで、クライオニクスは実現不可能だと決めつけている」と批判している[19]。「クライオニクス患者の回復は可能で、それ故に死亡している訳ではない」という考え方が、未来の進歩した技術によって立証される事を彼等は信じている。
アルコーはこれまでに、ルター派の牧師ケイ・グレースナーの説教など、キリスト教関係者による精力的な弁護活動について発表してきた[20]。著名な神学護教学者であるジョン・ウォリック・モンゴメリーもクライオニクスを擁護している[21]。1969年には、ローマカトリック司祭がアン・デブラシオ(初期のクライオニクス患者)の入ったカプセルを清めた。2002年には、イスラム聖職者がマスコミのインタビューの中で「クライオニクスが医療行為であるならばそれはイスラムの教えに反しない」と述べた。ニコライ・フョードロビッチ・フョードロフ信奉者の多くがクライオニクスをコモンコーズ計画にとって重要な手段とみなし、東方正教会の教えに反してないと考えている。
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クライオニクスの歴史
政治家でもあり、文豪家・科学者でもあった米国のベンジャミン・フランクリンは、1773年にジャック・デュボーグに宛てた有名な手紙の中で、人の生命を何世紀にもわたって一時停止させることができるようになるかもしれないと示唆している。しかしながら、クライオニクスが本格的に始まったのは、ミシガン大学の物理教員ロバート・エッチンガーが、自著「不死への展望」(自費出版)の中で、「人体冷凍保存によって未来の医療技術が利用できるようになるかもしれない」と発言した1962年のことである。エッチンガーは、「冷凍保存によって人の死は確定するように思われているが、将来はそのような状態から生還できるようになるかもしれない」と主張した。彼は「臨床死の初期段階は将来治療可能になるかも知れない」と言って、同様の主張を死の過程そのものにも適用した。これら二つの考え方を組み合わせ、彼は「最近死亡した人々を冷凍保存することは救命の手段になるかも知れない」と示唆した。
エッチンガーによる同書が完成する少し前、(ネイサン・デューリングというペンネームで執筆活動をしていた)エヴァン・クーパーが著書「不死学の現在」(自費出版)の中で同様の構想を独自に提案している。人体冷凍保存を促進するために、クーパーは1965年に延命協会を創設した。エッチンガーがクライオニクスの発案者であると信じられているのは、恐らく彼の著書がロシアの作家アイザック・アジモフと米国の作家フレデリック・ポールの推薦文つきで1962年に米国の大手出版社ダブルデーによって再版され、より多くの注目を集めたためだろう。エッチンガーが、クーパーより長く社会的な運動を続けていたこともある。しかし、クライオニクスの歴史が専門のマイケル・ペリーは「エヴァン・クーパーが組織的なクライオニクス活動を作り上げた最初の人物とみなされるべきだ。」と記している。
「クライオニクス」という言葉は、1965年にカーティス・ヘンダーソンとソウル・ケントがニューヨーク・クライオニクス協会を設立したことを受け、同年カール・ワーナーによって考案された。翌1966年にミシガン・クライオニクス協会とカリフォルニア・クライオニクス協会が設立され、1969年にはベイエリア・クライオニクス協会(1985年に全米クライオニクス協会に改称)が設立された。ミシガン・クライオニクス協会は最終的にはクライオニクス研究所と提携する非営利団体、不死探求者協会になった。クライオニクス研究所は1976年にロバート・エッチンガーによって創設されクライオニクスを提供する機関としては今や世界第二位の規模となった。
世界初のクライオニクス患者は心理学教授ジェームズ・ベッドフォード博士で、1967年1月12日、カリフォルニア・クライオニクス協会による粗悪な条件の下、享年73歳で冷凍保存された。それ以前に失敗例が1例あるものの、一般にはこの事例が世界初と認められている。ベッドフォード博士の冷凍保存はライフマガジン誌の限定版の表紙を飾り、それは宇宙飛行士3名が死亡したアポロ1号炎上のニュース報道のためにプレス機が止められるまで続いた。
1979年、カリフォルニア州チャッツワーツの墓地でカリフォルニア・クライオニクス協会が保存していた9体の遺体が解凍状態になっていることが判明。原因は資金の枯渇で、これによってクライオニクスは大きな痛手を被った。遺体のいくつかは、どうやら遺族への告知無しで何年も前に解凍されていたらしい。カリフォルニア・クライオニクス協会の理事長は訴えられ、この悪評はその後長期間クライオニクスの普及を遅らせた。1967年から1973年にかけて報告されたクライオニクス事例のうちでは、ジェームズ・ベッドフォードだけが今でも極低温保存されている。チャッツワーツの醜聞を受けて厳格な財務統制と財務要件が採用されることとなったが、これによって以降ほぼ全てのクライオニクス患者がきちんと維持管理されている。
現在最大手のクライオニクス団体アルコーは、1972年、フレッド・チェンバレンとその妻リンダにより「アルコー固体冷却協会」として設立された。1977年、同協会の名称はアルコー生命延長財団に変更された。インディアナ州でマイク・ダーウィンとスティーブ・ブリッジによって創立された高度生物学研究所は、1982年、アルコーと合併した。ダーウィンと医学者ジェリー・リーフがそれぞれ持っている技能とコミュニケーション能力を組み合わせることになったこの合併は、アルコーに相当数の専門家を引きつけることになった重大事件として一般に見なされ、最終的にはアルコーを当分野において主導的地位へと押し上げた。
80年代に入るとダーウィンはUCLAで心胸郭(しんきょうかく)手術の研究をしていたジェリー・リーフと共に、アルコーでクライオニクス施術の為の医療モデルの開発を行った。リーフとダーウィン以前のクライオニクス施術は、防腐剤の代わりに凍結防止剤を注入するだけという、埋葬処置の毛の生えた程度のものであった。リーフとダーウィンによって、心停止直後にCPR(心肺蘇生)と投薬をし、続いて心肺バイパスと大血管を繋ぐ為の胸部手術を行えば、クライオニクス患者における虚血性傷害(血流が滞る事で生じる傷害)を大幅に軽減できることが示された。これによって生まれたのが、現在“スタンバイ”として知られているクライオニクス施術法である。スタンバイでは固定化チームがクライオニクス患者のベッドの傍で待機(stand-by)し、心停止後すぐさま生命維持処置を開始する。クライオニクス患者の血液循環および血液酸素化の維持はエッティンガーによって最初に提案され、60年代初頭にはすでにミシガン・クライオニクス協会がかかる目的のためにウエスティングハウス・アイアン・ハートを用意していたものの、この様な処置の利用例としてはっきりと報告されている最初の事例は80年代になってやっと登場するのである。
クライオニクスは80年代に入って新たな支持材料を得る。MITのエンジニア、エリック・ドレクスラーが分子ナノテクノロジーの新たな分野を予見し、これに関する論文や本を出版し始めたのだ。1986年の著書「創造する機械(原題:Engines
of Creation)」の中では、丸々一章を割いてクライオニクスへの応用について書いている[28]。クライオニクス支持者達は長い間、傷ついた組織を分子レベルで修復する事は理論的に可能であるという見方をして来たが、ナノテクノロジーという新たな分野の出現によって、こうした発想に技術的な裏づけが出来そうだと彼等は考えたのである。
ナノテクノロジーはクライオニクス分野の中においても論争の種になっている。クライオニクス支持者の中には、クライオニクスの成功には「ナノテクノロジーだけで十分である」から、高度な保存技術は必要ないとと言い切る者もいる。これに対し疑問を投げかける人々は、保存のクオリティとは無関係に「ナノテクだけで十分である」と信じ込む事自体が、もはや科学ではなく宗教であると批判する。リーフとダーウィンによる医療モデルの登場と期を同じくして、ナノテクを用いた修復パラダイムが現れたが、これによってクライオニクスに二つの対極する論派が形成され、現在でもその流れが受け継がれている[30]。一方の論派では、葬儀屋が行う簡素で安価な処置でも十分であると考えている。もう一方は可逆的な仮死状態を最終的な目標と位置付け、現代医学の手法を出来るだけクライオニクスの処置に取り入れることで、その実行可能性を検討、維持していこうと考えている。
80年代の後半には、技術の進歩、ナノテクの専門家達からの支持、効果的なコミュニケーションなどが相乗効果を引き起こし、特にアルコーにおいて急成長の時代を迎えるのである。アルコー会員は十年で十倍に増え、特に1988年から1992年は年30%の割合で会員数を増やしていった。
アルコーは1993年に組織上の混乱によって分裂する。行動派のメンバー達がCryoCare基金[31]を立ち上げる為にアルコーを去った為である。同時に関連会社のCryoSpan(ポール・ウェクイファーが中心)やBioPreservation(マイク・ダーウィンが中心)が営利目的で立ち上げられた。ダーウィンとその協力者達はこの期間に多くの技術的進歩をもたらした。その中には、高濃度グリセリンを用いて脳の低温保存のクオリティを高めるなど、際立った研究成果も上がっている[33]。CryoCareは1999年にBioPreservationとの契約更新に至らなかったため、操業停止に追いやられた。CryoSpanに保存されていたCryoCareの患者2名はアルコーに移され、同じくCryoSpanで保存されていたACSの患者数名はCIへの移転となった。
営利目的でクライオニクスを行う会社は(ほとんどすぐにつぶれてしまうものの)数多く存在した。営利目的の会社は非営利団体の共同会社、もしくは関連会社としてサービスを提供しており、主に次のような会社があった(括弧内はサービス提供先の非営利団体)。Cryonic
Interment(CSC)、Cryo-Span Corporation(CSNY)、Cryo-Care
Equipment Corporation (CSCとCSNY)、Manrise
Corporation(Alcor)、CryoVita(Alcor)、BioTransport(Alcor)、Trans
Time(BACS)、Soma(IABS)、CryoSpan(CryoCareとACS)、BioPresevation(CroCareとACS)、Kryos(ACS)、Suspended
Animation(CI、ACS、Alcor)
この中で現存する会社は、Trans
TimeとSuspended Animationのみである。収益を得られた会社は一つもないらしい。クライオニクスの分野は、アルコー、クライオニクス研究所(CI)、アメリカ・クライオニクス協会(ACS)の3つの非営利団体にほぼ固まったようである。これらの団体は収入源の多くを遺産や寄付に頼っている。
90年代の研究で凍結によるダメージの影響がより詳細に分かってきた事で、凍結傷を防ぐ為の凍結防止剤として高濃度のグリセロールを用いる手法が流行った時期があった。2001年からアルコーは低温保存中の氷形成を完全に防ぐ為に、ガラス化を用い始めた(低温生物学の主流である臓器保存研究の技術を転用したものである)。当時のガラス化は頭部のみにしか適用出来なかった為、最適な脳保存を保証する為には体と頭を切り離さなければならない場合もあり、それがまた一般の人々の間に大きな混乱を招く事になったのである。
2005年、アルコーは頭部切断なしで全身のガラス化を行う処理を試験的に開始した[36]。同年、クライオニクス研究所は頭部身体から切り離さずにガラス化し、身体は凍結防止剤を用いずに凍結させるという新たな処理の運用を開始した[37]。その一年後、クライオニクス研究所は身体のかん流剤(注:全身の血管に流し込む保存剤)としてエチレングリコールを使用し始めた[38]。
野球選手のテッド・ウィリアムスが2002年にアルコーで極低温保存された際に、彼の生前の意思を巡って遺族側が異議を申し立てた。2003年7月のスポーツ・イラストレーテッド誌では、アルコーはテッド・ウィリアムスに誤った処置を施したと報道された[39][40][41]。こうした事態を受け、アルコーの存続を賭けた争いはアリゾナ議会にまで持ち込まれたのである[42]。
これによって、アルコーは統一死体提供法の適用が受けられなくなる可能性があった。そうなった場合、クライオニクス患者にすぐさま処置を施す権限が損なわれるのである。テッド・ウィリアムスに関しては全く責任のないクライオニクス研究所(CI)も、マスコミに大々的に叩かれ、ミシガン州から半年の操業停止命令が下った。最終的にミシガン州政府はCIを墓地業者という位置付けにする事で決着をつけた。
アルコーは現在、75人のクライオニクス患者をアリゾナのスコッツデールで保存している。クライオニクス研究所も75人の人間の患者と40匹のペットを、ミシガンのクリントン・タウンシップにある施設で保存している。欧州、カナダ、イギリス、オーストラリアなどにも支援団体が存在する。ロシアにはKrioRusという小規模のクライオニクス施設が存在し、患者2名の頭部が保存されている。KrioRusはオーストラリアにも施設を開設する予定である。
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クライオニクス関係者のその他の活動状況(サブカルチャー)
クライオニキスト達は大都市部において交流の場を設け(「クライオニクスの歴史」を参照)、定期的な会合や会議の開催、雑誌の刊行などを行なっている。ソウル・ケントやエバン・クーパー、フレッド&リンダのチャンバレン夫妻は、クライオニクス黎明期にクライオニクス関連会議の開催者として活躍していた人々である。クライニクス関連組織による各種刊行物もあり、こうしたものからクライオニクス関係者達は、イベントや共通の問題などの情報を得ている。
1988年7月24日にコンピュータ・サイエンスの博士号を持つケビン・ブラウンがCryoNetと呼ばれるメーリングリストを開始。これはクライオニクス関係者にとって強力なコミュニケーション・ツールとなった。他にも多くのメーリングリストやウェブフォーラムがその後立ち上げられ、クライオニクスや特定の組織の動向など様々な議論がなされるようになったが、CryoNetは今でもウェブ上でクライオニキスト達が集う中心的な場である。
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